日本の大都会での静かな出会い…の続き。
街中のコーヒーショップで偶然隣に座った人を訪ねました。文章にしやすくするため沢木さんとします。
一期一会
久しぶりの日本の正月を家族で過ごし落ち着いた頃、沢木さんにもらった電話番号のメモをポケットから取り出した。
彼らもまた正月を実家で過ごしていて、長野に戻るのは年が明けて1週間後ということだった。僕達が日本を発つのはその3日後。日本でやることもまだまだ沢山あった。
ただ、年末のある午後にコーヒーショップで隣に座って話しただけの間柄、今回会わなければもう会うことはないかもしれないという気もしていた。メールアドレスでもあればメッセージでも送っておいて今後気楽に繋がりを保っておける便利な時代だが、何しろ沢木さんとの連絡手段は1本の固定電話のみなのだ。
なんとか仕事やプライベートの予定を調整しつつ、日本出発の3日前に長野旅行をすることができた。もちろん娘や奥さんも誘って。僕はこうして見知らぬどこかで誰かと知り合っては、家族を連れて遊びに行くが、大して理由も聞かず付き合ってくれる家族がいるのはありがたいことかもしれない。
前日、唯一の連絡手段であるその固定電話番号に電話をすると、まだ言葉もおぼつかない小さな男の子が出た。その後お母さんに代わり、沢木さんに代わり、本当にお邪魔したいことを伝えると快諾してくれた。
携帯電話のように本人に直通電話が当たり前、名乗らなくても名前が伝わっていることに慣れてしまった今、家族とコミュニケーションを取りながら取り次ぐというのが懐かしくも新鮮に感じた。
中央自動車道のインターから市街を抜けて旧街道をひたすら進み、田んぼやりんご園が続くのどかな集落にあった。
道の傍らで休憩しているおばあさんが家を教えてくれて到着した。「古民家」などと言えばトレンドめいて聞こえるかもしれないが、田舎で育った僕には懐かしさすら感じるごく普通の古い木造平屋建てのシンプルな家だ。
奥さんは突然の訪問である僕らを快く迎えてくれ、沢木さんと再会の握手をした。僕らは居間にあるこたつでしばらく話をして、お昼ごはんを頂いた。
沢木さんたちが用意してくれた料理は特別に美味しいものだった。
シンプルでもしっかりとした味。それは、食材が本物であり、化学調味料などを一切使っていないということはすぐに想像できる味だった。決して華やかではない。ただそこで手に入る地の食材で、家族のためだけに作られたシンプルなお惣菜。こういうものは、都会にできる「オーガニックカフェ」では出会うことのできないものだ。
物の必要性
台所は昔ながらの薄暗さがあったが、古い道具が丁寧に使われていた。そして一番驚いたのは冷蔵庫がないということだ。携帯やパソコンがないことに驚いたもののまだ理解可能だったが、冷蔵庫がないというのはさすがに聞き返してしまった。
でも沢木さんたちは平然と「なくても大丈夫だよ」という。
「野菜は畑からその日の分だけ。お肉は必要となれば街に出かけその日使う分だけ買う。乳製品はとらない。」
沢木さん家に冷蔵庫が必要ない理由はこれだけだった。
確かに頂いた昼食も炊きたてのご飯に常温保存のきくおかず類、汁物。元来、冷蔵庫がなかった時代から古く伝わる和食の特徴はこういうものだ。とはいっても、冷蔵庫の存在意義ってこんなものだっただろうか。これだけで、僕らの家で24時間365日ブォーンブォーンと動き続ける冷蔵庫が要らなくなるのだろうか。妙に納得できるような気もするし、納得できない気もする。
冷蔵庫がないことは沢木さんたちの価値観を知る1つの象徴的な事柄に過ぎない。
彼らのライフスタイルは、「常識と情報の波に包囲されて誰も抜けることができない(それ以外を知る術のない)消費社会から、ぽっかりと抜けだしたもの」であった。
彼らはそれを「ライフスタイル」と気張っている訳でもなく、「地球に優しい」と気遣っているわけでもない。ただ、必要なものだけで暮らしているに過ぎず、自分たちにとって必要かどうかを極めて当たり前のごとく判断しているだけだ。
ここ数年考えていたこと。
なぜ僕らは新しい携帯電話を買うのか、なぜ新しい電化製品を買うのか、なぜ新しい自動車を買うのか。なぜ毎年新しいモノが開発され、大声で宣伝され、それに従って僕らは消費し続けるのか。それって必要なのか。モノを作って売って買ってお金を回さなければ、経済は停滞し僕らは不幸せになるのか。
僕らはこたつを囲み、ここでの暮らしのこと、食べ物のこと、子育てのこと、いろいろなことを聞かせてもらった。
柔軟であること
僕は今でこそ子育てやライフスタイルについて真剣に考えているが、僕の価値観を大きく変えた出会いは過去に2つあった。
1つ目はカナダでシュタイナー教育を実践していた家族。
デジタルメディアの排除、自然食といったことへの感心を抱かせてくれた。今となれば、ここに来てから出会い学んだことの方がずっと大きくなっているが、今のカナダでの暮らしのきっかけはそこにある。
彼らから学んだことをひと言で表すなら「Creativeness(独創的であること)」
2つ目は沖縄のある島の小さな村で出会った家族。
家も自分で建て、食べ物も自給自足。見える人たちでコミュニティを形成し、古来の文化を継承していく暮らす。ひと言で表すなら「Primitiveness(野生的であること)」
(一方で子育てについては意図した「自然派」ではない「あるがまま」、であり、子どもが集まれば流行のアニメやゲームといった消費社会が支配する。日本の地方には美しい自然や文化があるが、過疎化の傾向は人々の文化成熟を置き去りにしているということを感じさせられたのも事実だった。)
そして今回、沢木さん一家との出会いはその3つ目に値するものだった。
言葉にすれば「flexibility(柔軟であること)」になるだろう。
柔軟であることとは何か、ここに全て書きたい所だが、1つのブログ記事にするには長すぎるし重要すぎる気がする、いつか暇になった時に別の形でまとめようと思う。
暮らしを重ねる
誰かのライフスタイルが理想だとしても、その通りにすれば幸せになるものではない。人それぞれの仕事、故郷、家族の事情があり、その持てるカードの中で少しずつより良い形を選んでいくのだと思う。
僕たちも彼らから学んだことを自分なりに咀嚼し、これからどうして生きていきたいかを考える。そしてできた「僕たちのスタイル」がまた、次の世代のどこかの誰かに少しでも良い影響を与えられれば、素敵だろう。
このような偶然の出会いに、心から感謝したい。
僕にとって彼らから得た知見が何よりの資産であり、人生を豊かにしてくれるものだと感じている。