このブログを書き始めたのは長女が6歳くらいの頃だったと思いますが、今や14歳。
娘の小学生時代をひとことで表すとしたら、「読書」に尽きると思います。
幼稚園卒業した頃に日本語の読み書きを覚え、自分で読書をする数は年間400冊程。
母親が幼少期からつけている読書記録によると、7歳〜12歳までの6年間で3000冊を超える本を読んでいました。
(年齢とともに文字サイズは小さくなりページ数が増えるので、冊数で言うと減ってくるはずなのですが、同時に読書スピードが上がることにより、読む冊数は減らないということ。)
私自身は「読書量が多ければ多いほど良い」と考えている訳でもなく、親として無理にに「本を読ませよう」という促しをしてきた訳ではありません。
また読書量だけで言えばもっと読んでいる子はいると思いますし、ほとんど読まない子もいると思いますので、数にそれほど意味があるとは思いません。
ただ事実「小学校だけで3000冊を読んだ子」を見てきて思うことを3つ挙げてみたいと思います。
子どもにできるだけの読書を勧めたいと思っている方に参考になればと思います。
1. 幼児期の読み聞かせとNon-早期教育
生まれた頃から絵本の読み聞かせは習慣的に行なっていました。
絵本の読み聞かせがあったからこそ、「自分で読める」ことへの喜び、好奇心と共に大きくジャンプするようなスタートがあったのだと思います。
幼児期から読み聞かせが習慣化していると、ある程度ものがわかる5歳、6歳になると、もっともっと本を読みたいと思うようになります。「読みたいのに、字が読めない。」この期間が本の世界への好奇心を増幅させていきます。
我が子の場合でも、幼稚園を卒業するまでは意図的に文字を教えることはしませんでした。
シュタイナー教育では7歳頃を幼児期から小学期への区切りとなる重要な年齢としています。(もちろん実際に7歳かどうかは個人差があるので、その子がその時期に来ているかどうかをしっかりと見極めているように思います。なので、幼稚園から小学校への進学を意図的に1年遅らせるということも普通でした。1年生の段階で、7歳でも8歳でも何も関係ないし、誰も気にしない。)
とにかく、その「7歳頃」までは文字を教えなくてもいいし、算数もしなくていい。習い事なんてもってのほか。とにかく遊ぶ。自然の中でとにかく遊ぶ。
「7歳頃」のギリギリまでただただ遊び、好奇心がはち切れそうな状態が来たら準備OK。
進級して一気に物事を学んでいく。そうすることで好奇心がしっかりと学びに繋がっていく。
まるで、弓を引き、我慢して、我慢して、いっぱいにしならせ、
あるときパッと手を離すように。
放たれた矢が猛スピードで大空に飛び立つように。
幼いうちから早期教育で頑張ってきた子が早いうちに疲弊してしまうのは「親が早く飛ばしたくて、その矢を早く放ちすぎたのか」というのは想像ですが、幼児期の発達に関しては弓矢を比喩にするとなんとなく納得してしまうところもあります。
読書の話に戻すと、6-7歳「本を読みたいもっと読みたい」という意欲がいっぱいまで高まってから、パッと文字を教えてあげる。すると「自分で読める!」となったときの勢いの凄さはまさに水を得た魚のように感じましたし、それが衰えることなく続いるののだと思います。
2. 読書が一番面白いほど、退屈
次に「読書が一番面白いほど、退屈。」であること。
見方を変えれば一番退屈なのが読書だと言っているようなもので読書に対して失礼かもしれませんが、ここでいう退屈というのは「面白さの分かりづらさ」。
何も考えていなくても、口を開けてボーッとしていても分かる強い刺激のメディアが、身の回りには多すぎるのです。
人は刺激が強い方に惹かれます。大人も同じですが子どもはもっともっと敏感です。
本なんかより楽に刺激が得られるものに簡単にアクセスできる今、なかなか本は読めないと思います。
親が積極的に何か面白いおもちゃをあげようということをしておらず、「何もない」状況を確保して放っておく。その「何もない」から子ども自ら何かを発見して遊びに昇華させていくことを大切にしてきました。
そのような中で、本というのは子どもにとって面白くて仕方ないものです。
逆に、手に届く場所にゲームもスマホもある環境にありながら、親もスマホ画面ばかり見ているような過程で、「読書しなさい」と言われても無理な話かもしれません。子どもが既にやりたいと思っていることを強制的に辞めさせたり、やってほしいことを強制しても、絶対にうまくいきません。
無理に読書させる必要はないと思いますが、もし読書して欲しいと思ったら、幼少期から身の回りにある刺激を整理して子どもの成長に合わせて少しづつあげると良いのかなと思います。
3. 大人フィルターは捨て去る
これは「読書好きに育てたいが為にやってしまいがち」なことへのアドバイスになるのですが、「どんな本を読むか大人が干渉しない」ということです。
大人の目線で「良い本がある」「良い本なので読んでほしい」という思いはどうしてもあると思います。
- メッセージ性がある
- 今の時代に知っておいてほしい(歴史、戦争、ジェンダー、環境)
- 絵がおしゃれ、装丁がおしゃれ、
- 人気作家、話題の新作
本が好きで、情報通な人ほどこういった本にばかり目が行きがちです。
インターネットにアンテナを立て、良さそうな本、評判の良い本を選んであげる。僕も昔はそういう傾向がありました。
でも今は思います。そういう「大人の選書フィルター」は、頭が禿げ上がるほどどうでもいいと。
決してそういった本を避けよういう訳でもありません。
そんな大人フィルターがどうでも良くなるくらい、全部読むのです。
もっというと「どのみち全部読むから、大人が選ばなくて良い」ということです。
子どもを本の「おおうなばら」に置いてあげる。
そして自分で手に取った本を読む。
面白かった、つまらなかった、ワクワクした、怖かった。
子どもは大人の何倍もの時間を持っています。
これから長い時間をかけて、良い本、そうでもない本の基準を自分なりに作り、自分で本を選ぶことができるようになるまで、なんでもかんでも読みまくる。それが子どもにとっての大切なことではないかなと思っています。
小学校6年間で3000冊の本を用意するには デジタルパパの子育て日記
[…] 前回の記事「小学校6年間で3000冊を読む」の続きです。 […]