子どもに兄弟がいる場合、1人目より2人目、2人目より3人目、の方が物覚えが早いと感じることは多いと思う。
うちの次女6歳も、少し離れた姉がいることもあり、長女に比べると脳の発達がかなり早いように感じる。
1年生までにひらがなや簡単な算数を教える?
とはいえ、我が家では「1年生までにひらがなや、簡単な算数を教える」ということを一切やらないようにしているので、そういう意味での知識は未だにゼロだ。
先日、日本の友人の同い年の子と遊んだ際、その子は「書き方ドリル」を持参してきて1年生レベルの漢字を書いて見せてくれた。
6歳ながらに、それをすることで「大人がものすごく褒めてくれる」という仕組みを理解しているのだろう。
感性に満ちた4歳、5歳、6歳の時代にそんなことに時間やエネルギーを使わなければいけない彼を若干可哀相に感じてしまうが、子育て人それぞれ。人よりも勉強をするのは良いことだ。
とはいえ、そういった勉強という意味では、うちの子は圧倒的に遅れまくっている。
6歳でもひらがなは自分の名前だけかろうじて読めるが、それ以外の文字は全く読めない。
もちろん算数どころか、数字の読み方も知らない。
だから、という訳ではないが、赤ちゃん時代から特に「勉強」をしないままの、何にも知らない状態で、5,6歳程度のアウトプット能力(言語能力、絵を描く能力)が上がってくると、子どもはどんどん面白くなってくるように感じる。
例えば彼女は5歳くらいのときから絵本を作るようになった。自分なりに物語を考え、ストーリーに沿った絵を書き、近くにいる大人に頭の中にある文章を声に出し、文字に起こししてもらう。
そして何やら黙々と作業をしていると思えば、その原稿を1枚1枚をテープでくっつけて、10ページほどの本を完成させる。
うちには彼女が製作したオリジナルの絵本が2,3冊あり、それぞれストーリー性はあるものの、全く予測不可能な展開でとても面白い。
もしこの段階でひらがなを習得していたら、こんな絵本は生まれなかっただろうと思う。
「お母さんって、どうしてお母さんなの?」
そして、頭の中にある疑問をそのまま質問してくるのだが、その質問も面白い。
「お母さんって、どうしてお母さんなの?」
6歳の子にそう聞かれたら、母親はどう答えるだろうか?
返す人の知的水準、思考の速さなどが求められる質問だ。
「お母さんだから」で終わらせてしまう人もいれば、質問者の剛速球を弾丸ライナーで打ち返し、頭をフル回転させるような返事をできる人もいるだろう。
僕が思うもっとも無難な逃げ解答は「○○は、どうしてだと思う?」だ。(笑)
子どもの素朴な疑問に、「科学で答える」か、「想像の余地を与える」か。
僕らは常に「想像の余地を与える」ようにしている。
例えば「お母さんって、どうしてお母さんなの?」に対し生物学的な理由を答えるのか、何か面白い物語を考えるのか。
うみってどうして塩味なの?
4歳くらいのとき、「うみってどうして塩味なの?」という質問があった。
そのときは「どうしてかな?」というキャッチボールを続けるうちに、娘がひらめいた。
「わかった!!」
「くじらはしおを吹くでしょ!?だからうみは塩味なんだ!!」
僕は塩と潮の区別をつけないこのアイディアに大笑いしてしまった。そもそも漢字を知らないから「しお」は「しお」だ。
僕は「ピンポーン!あたり!!クジラがしおをばらまいてるから、海は塩味なんだよ。」
と答え、娘は自分の答えが正解だったことに大喜びし、大いに盛り上がった。
こうやって、真実でないことを教えることに不快感を感じる人もいるかもしれない。
もちろん、仮にそうした場合にはやはり「それをいつまで続けるか」という問題が残る。「サンタさんは誰なのか」をいつ教えるかというようなことだ。
「サンタは嘘なんだから、知っておいたほうがいい」というのも間違っていないし、サンタを信じ続けることも自由だ。
ちなみに長女は12歳になるがサンタの存在をまったく疑っていないようだ。
僕は、仮に娘が15歳のある日、友人にサンタを信じていたことを馬鹿にされたとしても、そこまで「想像の世界を見ることができた」ことは、その人にとって価値のあることだと思う。
科学的な真実は、遅かれ早かれ知る。普通に教育を受け、人と多く話し、沢山の本を読んでいれば、そして今のインターネットによる情報化社会では10代でほとんどの事実を知るだろう。
そして事実を知ったとき、子供時代の空想を「面白いな」と思えるかどうかが、その人の文化的な面白さなのではないかと思う。
空想を面白いと感じ、その空想を生み出した無邪気な自分、それに合わせてくれた大人、空想で描かれた本。
そういう物をいつも心に持った人が増え、またその次の世代に夢物語を聞かせられるようになれば良いなと思う。
せかいって、どうやってできたの?
さて、話はそれたが先日、6歳の次女が幼稚園への車の中でこう聞いてきてくれた
(娘)「せかいって、どうやってできたの?」
これまたものすごい質問が来た。
僕は、あまりに抽象的なのでまずは取っ掛かりをつけようと、やや現実的な思想で返した。
(父)「神様がつくったんじゃない?」
(娘は宗教的知識もないので、神様がなにかなどは知らないが、かみさまという言葉は分かっている)
すると、こうきた。
(娘)「かみさまもいない、もっとまえ。」
神様とかそういうものが現れる、もっと以前の話らしい。
僕は更にこの質問が大変なものであることを察知し、身の安全のためまたもや現実的な回答をした。
(父)「その『せかい』って地球のこと?宇宙のこと?」
雨の朝、幼稚園へ向かう車の中。ピリピリとした緊張感のある問答だ。
(父)「宇宙には沢山の星が散らばっていて、その1つが地球なんだよね。」
(父)「だからまず宇宙ができてから、地球ができたと思う。」
(父)「宇宙がどうやってできたのかが知りたい?それとも、宇宙の中で地球がどうやってできたのかが知りたい?」
今思うとつまらない回答だが、僕は焦っていた。
ある程度、科学的なとっかかりをつけて、その尾びれに面白い空想を考えようという魂胆だ。
(娘)「うちゅうより、もっとまえ。」
焦る僕。
(父)「それって、暗いのかな。明るいのかな。」
(娘)「くらいとか、あかるいとかもない。とうめい。」
(父)「透明…」
…
(父)「砂ひとつぶもないの?」
(娘)「すなひとつぶもない。(笑)」
(父)「みずひとつぶもない?」
(娘)「みずひとつぶもない。(笑)」
(2人)「なにもない(笑)」
この後、あれもない、これもないで2人で大笑いしながら問答が続く。
やがて、なにかの本か図鑑で見たのか、何らかの爆発があったということを持ち出してきた。
(娘)「なにかがばくはつした!?」
それがビッグバンなのか分からないが、とにかくばくはつがあった。
でも本人が言うのは、爆発するもの自体がないのだ。
そして6歳の娘は、頭をフル回転させてこんな結論を叩き出した。
(娘)「なんにもないが、ばくはつした!」
せかいはなんにもなかったのに、そのなんにもないがばくはつしたのだ。
(娘)「そしたら、すながひとつぶできた。」
(娘)「そのすなひとつぶから、うちゅうやちきゅうができた!」
この想像の力。言葉の力。
何も知らないから想像しようとする。
何も知らないから想像できる。
何も知らないから誰も知らないことを思いつく。
もう少ししたら小学生。
何も知らないでいられるのは、せいぜい7歳まで。
何も知らない幼少期という時間は、宝物だ。