
上高地、おなじみの河童橋
10月に12歳の娘と久しぶりに2人だけで登山に行ってきた。
テーマは涸沢カールへの紅葉登山。
日本でのアウトドア、登山ブームもあって、秋の登山としては近年かなり人気になっている場所だ。
当初は僕1人で奥穂高まで行こうと思っていたのだが、娘も行きたいというので、目的地を涸沢カールテント泊とした。
紅葉のピークとなる超混雑期は10月初旬のため、それから1週間ほど過ぎた平日の2日間は人はまばら、涸沢カールのテント場も2割3割くらいだった。紅葉も涸沢でのピーク後ではあるものの標高差でのグラデーションが楽しむことができ、静かな紅葉登山を楽しむことができた。
上高地〜涸沢へ
娘は、最長で2泊3日のバックカントリー、日本でも日帰りのハイクは結構やっている方だと思うけど、上高地から標高2,300mの涸沢までの登山はかなり堪えたようだ。テントやバーナー類は僕が持ち、娘のザックは10kgないくらいだったと思うが、横尾山まで延々と平坦な道が続く3時間ほどの道のりでかなりへばってしまってしまっていた。
今回は前泊なしの遠征のため、朝4時前に起きて高速道路3時間、バス1時間、あまり眠れぬまま実際に上高地バスターミナルから歩き始めたのが8時半だったので、お昼12時の時点ではかなり疲労が溜まっていたのだろう。
娘の疲労感はかなり早い段階から気づいていたので、プランBとして「徳沢か横尾でテントを張り、翌朝に軽装で涸沢まで行く」を選択肢に入れて、相談しながら歩いた。
横尾から本格的な登山道がさらに3時間続くので、最後のテント場である横尾の時点ではプランBがベターだと思っていたが、娘は「大丈夫」の一点張り。

横尾大橋を渡り後半戦へ
遅く見積もって16時着をターゲットとすれば時間的にも問題なく、僕自身は体力的にかなり余裕がある状態だったので、そのまま出発。
そこからの3時間、こまめに休憩を取りながら、美しい山の景色、紅葉があれば2人で写真を取り、ゆっくりゆっくりと登って行ったが、最後の1時間はまさに満身創痍で1歩1歩を気力で進めるというものだった。息も絶え絶えになりながら、なんとか16時過ぎに涸沢カールに到達した。
登山は誰と一緒でも歩くのは自分の足。
我が子の頑張りを感じながら一緒に目的地に着いた達成感は格別だった。
涸沢カールテント泊
ひとまず食堂で娘におでん。そして僕はビールで乾杯した。
ガラガラのテント場にテントを張り夕食を作って食べ、18時くらいには真っ暗で凍えるほど寒くなってきたので、テントに入り眠りについた。
登山でも川下りでもそうだが、子どもを連れて野営する際はやはり自分のことよりもまず「子どもがよく眠れるように」ということだけを考えてしまう。十分な疲労回復ができなければ、翌日こなせる行動が変わってくるし、怪我のリスクも増えてしまう。テントの中ではあれこれしながら娘を暖めて、「よく寝ているか」を確認してから、ようやく自分も寝る気分になれる。自分はそのままほとんど眠れないことも多い。
この時期、標高2,300mの涸沢は夜明けの段階で気温は1度程だった。
下山
暗闇の中で起きて暖かい飲み物を飲みながら朝焼けをみて、テントを撤収してすぐに下山をはじめた。
下山もまた、12歳の娘には楽ではない。
険しい登山道を3時間下った横尾山荘までは、美しい紅葉もあり2人も話しながら歩いたが、そこからの平坦路3時間が時間以上に長く感じ、娘もどんどん言葉少なになっていった。
このルートは半分までは平坦な散歩道であるために、すれ違う人も変わってくる。
日本人特有な感じ、というのか、登山道ではお互いに登山者として少なからず「同志感」を感じるのか、必ずすれ違いの挨拶をする。ところが上高地に近い散歩道では、まるで人混みの都会を歩いているように目も合わせない人がほとんどなのだ。
人がいるのに互いにいないように振る舞う(目を合わせずにすれ違う)のは、そういうことに慣れていない人間にとっては心にストレスを感じる。
そう言う意味で英語圏でいう「Hi」のような無味無臭で何気ない挨拶が、日本にもあったらと思う。「Konnichiwa」は長すぎるのかもしれない。
同じ一本道を歩いているだけで、人々との距離感がこんなにも変わってくるなんてね。娘と話したが、こんな精神的な部分で、疲労感は増していくのだと思った。
意志
最後の1時間程、娘は足関節が痛みだして歩くことが苦痛のようだった。
一歩一歩がかなり辛いようだ。
無理をする必要はない。これはただのレジャーだ。
関節に無理をかけてしまえばそれが尾を引いてしまうこともある。
自分で歩くことも大事だが、君はたまたま付いてきただけの子どもだし、全くその必要はない。無理をしない範囲で楽しんで帰り、明日からまた健康体で過ごしてほしい。
僕はそう思い、「ザックを持ってあげるか、せめてザックの中の荷物をこちらに詰め替えて身軽になって歩こう。」と提案する。
「いい。自分の荷物だから、自分で持つ。」
「いいから、貸して。」
「いい」
これを何度か繰り返したが、結局娘は譲らなかった。
最後の最後まで、前日の登り始めの装備と同じ状態でゴールすることにこだわり、歩いた。
僕は渋々ながら、そのまま辛そうな彼女のペースに合わせて歩き続けた。
ふと、10年以上も前に読んだ本の場面が僕の頭に蘇った。
クライマーの山野井泰史さんと山野井妙子さんの、死闘とも言える壮絶な登山行を描いた、沢木耕太郎の「凍」という本がある。
2人が絶望的な状況から奇跡の生還をしベースキャンプに辿り着く山野井妙子さんは、ほとんど1歩づつしか歩けない瀕死の状態で歩いていた。ベースキャンプ300mのところで、駆け寄って助けに来た仲間が荷物を背負っていこうかと尋ねるが、それを断り歩き続ける。その状況においても「自分の足で出発し、自分の足で戻る」ことに拘った。
とても比べるには程遠い世界だが、娘の意固地なまでの様子を見て、
娘にはもう娘自身の世界があり、自分なりの指針があり、意思があり、それにしたがって動いているんだ。
そう感じた、美しい秋の登山だった。