前回は「キャラクターグッズではなくて…」ということを書きました。
シュタイナー等に関心がなくても、もともと家にテレビもないしキャラクターグッズも買わないという人は結構いると思いますので、今回はそこから更に考えを深めもっと本質的な部分について考えてみたいと思います。
- キャラクターを避けること = 子どもにとって良いこと?
- キャラクターじゃない玩具 = 積み木、知育玩具、ヨーロッパのお洒落な玩具?
この表面的な方程式だけを頭に入れて子どもに「禁止令」を出すのは簡単です。
しかし、キャラクターグッズを全部捨てて、知育玩具やインテリアにもなりそうなお洒落な玩具を集めることが子どもにとって良いことなのでしょうか?
大人が「子どもの創造力を高める」?
何年か前のクリスマス前、娘と一緒に「木のおもちゃ」や「知育玩具」を扱うお店を見ていた時のこと。少々値は張るが、安っぽいキャラクターグッズの世界とも違う、素敵なお店と商品たち。
そこには「子どもの創造力を高める」というキャッチフレーズがありました。
幼児用玩具や絵本を見ていると「子どもの創造力を高める」という言葉をしばしば目にすることがあると思います。
でも、ふと疑問を感じました。それは「大人が子どもの創造力をコントロールできると思っている事自体、僕たちは既に大きな勘違いをしているのではないだろうか」ということです。
創造性は知識量に反比例する?
僕は、創造性と知識量について次のように考えています。
知識的学習を得るということはそれだけ脳の中の物事をはっきりとさせていくことであり、創造力(想像力)はその分だけ失われてしまうという。
創造力とは成長と共に養っていくのではなく、知識的学習量に反比例して失われていく。
これを分かりやすく視覚化するため、創造性喪失曲線と題して次のようなグラフを書いてみました。(これは科学的根拠は全くなくて、僕が勝手に書いたグラフに過ぎないことだけご注意を)
茶色の方は知識的学習量。幼少期はスポンジのように物事を吸収していきます。10代は日々学校で勉強するので更に少しずつ増えていき、年齢が上がるにつれ脳の柔らかさは失われ、学習機会もさほどなくなるため、そのスピードは落ちていきます。それでも人は死ぬまでに多くの経験から学習していきます。
そして黄色のラインは創造性。産まれたばかりの赤ちゃんの創造性を仮に100とすると、その創造性は知識学習量に反比例して失われていくというのがこのグラフのポイントとなります。幼児期〜青年期までに急激に低下して、平凡な社会人となった22歳の時点で100あったのが半分以下になり、そこから50年以上はほとんど平坦なまま死へと向かっていく。
(パブロ・ピカソのような絵画を見ていると、天才と称される芸術家は環境あるいは発達障害などで、子どもと同じような創造性を脳が保ったまま、成長と共にインプットやアウトプットのための身体的な能力・技法を習得した状態なのかもしれないなと思うことがあります。)
曖昧さから生まれる想像力
知識が曖昧であればあるほど、ある事象に対して想像力が働く。それが正解であるか否かに関わらず想像力が働くための環境がここにあります。反対にその事象について既に知識を持っていれば、想像せずにすぐに解答を返す事ができるようになります。
何か1つ学習するごとに、「それが何なのかを想像する力」は消えてしまうとしたら、産まれたての赤ちゃんは天才的な芸術家とも言えるでしょう。
そう考えると、普通に成熟した大人が「子どもの創造力を高める」ことななんて最初からできないし、やろうとすること自体間違っているのかもしれません。大人にできることは、「いかに子どもの創造性を守るか」に尽きると思います。
もちろん一定の成長段階を過ぎれば子どもは全ての外界刺激を自らの創造的アウトプットに変えていくことができるようになります。しかし、その段階にどれだけの想像力が守られているかで、それ以降の外界刺激に対して単なる消費者になるか、創造性に変えていくかが分かれていくのかもしれません。
あらゆる具象的な概念と形態
シュタイナーでは人形を使った遊びが沢山あります。特徴的なのは、それらのお人形には顔が描かれていないといこと。
その意図するものは、「表情を空白にしておくことで子どもは常に頭の中で想像しながら遊ぶことができる」という考えです。ある子が朝みたその人形は笑っているかもしれないし、ある子が夕方にみたその人形は泣いていたかもしれない。それは決して大人が最初に決めつける必要などないのです。
可能な限り想像の余地を残す
例えば0歳児に「0歳児向け玩具」ではなく「木片」を渡してみる。
それは正確にカットされた積み木ですらなく、何の形もしていない、立方体ですらない、丸みを帯びた木片。あるのはその重さ、質感、自然の木の色。 人間の五感で感じる情報以外に何もない物。
物が何の具象性も持ち合わせていなければ、子どもはそれをあらゆるものに見立てる。自動車に、動物に、人間に。単なる木片は、子どもの創造力によってあらゆるものに形を変えていきます。
例えば、お絵描きでキリンを書く。
そんな時、大人がキリンの色や形を今正しく教える必要なんて全くありません。緑色のキリン、首の短いキリン、動物にすら見えない何か。それを今すぐ訂正する必要などありません。いずれ本物のキリンをまじまじと観察する機会があり、その想像上のキリンと本物のキリンが自分の頭のなかで交差するとしたら、それは素晴らしい瞬間になるでしょう。
既成製品や大人の知識に邪魔をされず、子ども自身から湧き出る空想は、世界で1つの芸術作品ではないでしょうか。
奇跡の空想を見つけよう
キャラクターグッズへの疑問から初めて、最後に「木片」はさすがに極端だと感じられるかもしれません。実際、「0才児向けの素敵なおもちゃ」を期待している人に木片をプレゼントしたら怒ってしまうかもしれませんので(笑)
でも、幼児期の子の遊びに対して僕たちができる唯一のことは「可能な限り想像の余地を残す」こと、そしてその余地に想像される輝く何かをそっと見守ってあげることだと思います。
産まれたての赤ちゃんの頃からアニメキャラクター漬けの生活をさせることはどのような事かを、改めて考えてみる機会になればと思います。